辞世の句として「たぐいなき幸 吾(われ)選まれて今南海の雲と散り征(ゆ)く」「身はたとえ南海の果てに砕くとも み霊は永久(とわ)にみ国護(まも)らむ」など数首が記されている。石垣中尉が文学的素養に恵まれていたことをうかがわせる。
菅沼さんは、祖母が石垣中尉の姉で、石垣中尉は大叔父に当たる。昨年、父親が遺書のコピーを所有していることが判明。遺書に初めて接した時の印象を振り返り「何てきれいな字だろうと感動した。愛国心、使命感にあふれ『必ず特攻を成功させる』という青年の思いが伝わってきた」と話した。
同隊の10人は45年3月26日、石垣島から出撃して慶良間諸島に迫る米艦隊を攻撃し、沖縄戦の火ぶたを切った。全員が戦死したが、第十方面司令官から感状が授与された。2013年に石垣市南ぬ浜町に建立された顕彰碑には、10人を含め、石垣島から出撃したことが確認された31人が刻名されている。
[石垣仁中尉]大正11(1922)年生まれ。本籍は山形県飽海郡高瀬村。陸軍予科士官学校、陸軍航空士官学校、志津陸軍飛行学校を経て中国、台湾で転戦。44年(昭和19)年、誠第十七飛行隊に入る。45(昭和20)年2月18日、同隊が石垣島に展開。3月22日、台湾台北野柳半島西方で敵機と交戦、戦死。