メディアの責任―。この表現を使う人は、未だにメディアというものに何か崇高なものを懐いているのだろうか◆戦前は戦争を煽り、戦後は反戦を叫んでいる。日本人拉致は嘘だと社会的に葬り、文化大革命のチャイナを道徳国家と褒め称え、最近は朝日新聞元記者、植村隆氏による慰安婦報道は捏造だと最高裁が認めた◆〈「知る労」を免れたがっているからこそ、人々は新聞にその役割を任せる。詰り、事実の調査と、その調査した事実のうち何を報道するかという選択と、それを新聞が代行する。凡ゆる事が報道されず、そこに選択が行われるとすれば、この選択と検閲と一体どこに差があるのか(略)「偏向」とは、要するにこの民間検閲の事に他なるまい〉(『新聞のすべて』)◆いや我々は権力や巨悪と闘っているのだ!―自身も権力だから闘えるわけだが、使命というなら皆さんそうである。誰かの笑顔のために働く人々、命をはって市井を守る人々、国防を託されている人々、等々。他方、一部報道はすでに話半分ですらない◆むろん虚報や捏造があれば訴えればよい。それができぬならお金を与えなければよい。責任とは、自ら引き受けるものである。他者が責任を負わせることで改心するメディアなど、あるとは思われない。 (S)