【視点】平成の沖縄を振り返る

 米軍普天間飛行場の返還を実現させるには早期に辺野古移設を推進する必要がある。だがイデオロギー的な対立が激化し、移設の賛否で県民が二分された状況のまま、平成の終わりを迎えるのは残念だ。
 辺野古沿岸の埋め立ては、平成最後の年に土砂投入の作業が始まった。県民の間では日米地位協定の抜本的な改定を求める声が強いが、いまだ進展していない。
 翁長雄志前知事は初めて在任中に死去した知事となり、県内外から哀悼の意が寄せられた。
 宮古島、石垣島では陸上自衛隊配備計画が進んだ。10年(平成22年)の中国漁船衝突は、尖閣諸島をうかがう中国の脅威がいよいよ現実化したことを実感させる事件だった。12年(平成24年)の尖閣国有化を契機として中国公船の領海侵入が常態化し、沖縄の漁業者は周辺での漁が困難な状況になった。日本は先の見通せない長期的対応を迫られている。平成最後の年には、石垣島で駐屯地建設工事が始まった。
 沖縄が本土に追いつくためのスローガンだった「大臣を出すのが先か、甲子園で優勝するのが先か」は、今や死語だ。平成には、沖縄から下地幹郎氏と島尻安伊子氏が閣僚になった。下地氏は宮古島出身、島尻氏は宮城県出身であり、ともに本島以外で生まれた政治家であることも興味深い。
 甲子園では春、夏通算で沖縄勢が4回頂点に立った。10年の興南による春夏連覇は、県民の悲願達成であり「身体的能力は高いが精神力は弱い」と言われた沖縄球児のイメージを完全に払しょくした。離島の不利性を克服し、06年(平成18年)に春夏連続出場、3勝した八重山商工の偉業も全国ニュースになった。
 沖縄の上昇気流は、確実に未来へ高まっていく。平成は、そんな期待を県民に強く抱かせてくれた時代だった。
      (論説主幹 仲新城誠)

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