中国の文献で、尖閣諸島(石垣市)に言及した最古と見られる15世紀の史料を確認したと、長崎純心大の石井望准教授が28日までに明らかにした。明国のアジア地誌「寰宇通志(かんうつうし)」で、成立年代は、尖閣関連でこれまで最古とされてきた中国の史料より78年さかのぼる。「寰宇通志」の記述内容から、尖閣諸島と推定される島の位置情報は琉球人から得た可能性が高いことが判明。尖閣が古来、中国の勢力圏ではなく、琉球の生活圏であったことを示唆する発見となっている。
「寰宇通志」は1456年に成立。石井氏が琉球国に関する記述を確認したところ、琉球を起点として西に向けて島々を並べ、5日間で台湾西南側の澎湖諸島に到達する航路が記録されていた。
具体的には、琉球から「黿鼊嶼(げんぺきしょ)」まで1日、琉球から「高華嶼(こうかしょ)」まで3日、琉球から彭湖島まで5日とある。位置関係から、「黿鼊嶼」が尖閣諸島である可能性が極めて高いという。
従来、尖閣に言及した中国側最古の史料は1534年に成立した陳侃(ちんかん)の「使琉球録」とされてきた。琉球王府の役人が明国船に乗り組み、尖閣航路を水先案内した記録だった。
中国の地誌が外国航路を記述する場合、多くは中国を起点としている。石井氏によると、琉球を起点に西に向かう同書の内容は、琉球からの情報に基づき「黿鼊嶼」などの名称の出典である7世紀の中国古典「隋書」の記述を意図的に逆方向に並べ替えたもの。沖縄から彭湖島までの航路も、この年代以前の文献には見られない。
同書が成立した1456年は琉球船がマラッカまで頻繁に渡航して貿易した大航海時代で、東南アジアから日本までの海域では琉球が最大の貿易量を誇ったとされる。
石井氏は「貿易には航路の把握と強大な武力が不可欠。広大な海洋覇権を握っていた琉球王府の意図で中国側に対し『寰宇通志』に記された航路情報を提供させたと思われる」と指摘した。
石井氏によると、琉球の名護親方程順則(ていじゅんそく)が1708年に刊行した航路書「指南広義」でも「寰宇通志」と同じく琉球から尖閣、中国福建へと至る古い航路が記されており「寰宇通志」の情報源が琉球とする説を補強する形になっている。