1945年、石垣島から約180人を乗せ台湾に向かった疎開船2隻が米軍機に攻撃され、多数の犠牲者を出した「尖閣列島戦時遭難事件」を作家の門田隆将さんが取材している。生存者や遺族の証言をもとに「当時の日本人の生と死のドラマを描きたい」と話す。
門田さんは11月25日から6日間、取材のため石垣島を訪れ、生存者や遺族数人と面会。尖閣諸島・魚釣島に漂着した遭難者が「決死隊」として手づくりのサバニに乗り込み、救いを求めてたどり着いた石垣島・川平湾も見て回った。
「決死隊は米軍機に3度遭遇し、サバニをひっくり返してやり過ごしたが、食料や羅針盤を失った。川平湾に着いた時、砂浜に突っ伏したまま起き上がれなかったと聞く。まさに奇跡で『決死隊』と呼ばれた理由が分かった。頑強な大正、昭和生まれの男たちだった」。
ただ、事件の関係者探しは難航している。
遺族の回想録によると、決死隊が魚釣島を出発した時、当時石垣島にあった「花木写真館」の花木芳さんが「母が米寿の祝いに着たカリー(嘉例)の着物だから」と言って涙ながらに赤い着物を引き裂き、鉢巻きにして渡した。
門田さんは「花木写真館の一家のその後を知りたい」と望んでいるが、今回の取材では遺族の居場所を突き止められなかった。
芳さんと共に生還した次男の章さんは八重山高校陸上部に在籍。卒業後、那覇市に引っ越し、既に亡くなったことが分かっている。決死隊のサバニをつくったという船大工の八木由雄さんの遺族とも連絡が取れていない。
門田さんは2015年ごろから事件に関心を抱いてきたという。「サバイバルをテーマにした映画は多いが、この事件は半端ではない。遭難者の助け合いや行き抜く執念のドラマもある。いろいろな要素が詰まった物語なので、ぜひ現代によみがえらせたい」と期待する。
尖閣諸島を開拓した先人たちの歴史から説き起こすロングスパンのストーリーを構想しているという。
門田さんは花木さん、八木さんら生存者と遺族に関する情報提供を呼び掛けている。連絡先は八重山日報社編集部℡0980・82・2403。