顕彰碑に隊員の名追加刻印 妹の田中さん、慰霊祭初参列 伊舎堂隊

伊舎堂用久中佐と隊員の慰霊祭に参列した田中淑子さん(右)と菅沼ひかるさん=26日、南ぬ浜町の顕彰碑前(慰霊祭実行委員会提供)

 沖縄戦の陸軍特攻第1号として石垣島から出撃した地元出身の伊舎堂用久大尉(当時24)=戦死後、中佐に特進=と、隊員たちの慰霊祭が命日の26日、石垣市南ぬ浜町の顕彰碑前で開かれた。今年は伊舎堂大尉らの特攻直前、台湾沖で戦死した隊員の石垣仁中尉(当時23)=戦死後、大尉に昇進=の名前が顕彰碑に追加刻印され、石垣中尉の妹、田中淑子さん(89)=山形県山形市=が初めて参列した。

 伊舎堂大尉が隊長を務めた誠第十七飛行隊の隊員らは1945年3月26日未明、沖縄上陸直前の米艦隊と慶良間諸島沖で交戦し、沖縄戦の火ぶたを切った。2013年に建立された顕彰碑には誠第十七飛行隊の隊員ら、石垣島から特攻したことが確認されている31人の名前が刻印された。
 石垣中尉は誠第十七飛行隊の副隊長格だったが、隊の出撃直前、45年3月22日に台湾沖で戦死しため、顕彰碑に名前は刻まれていなかった。
 顕彰碑の建立後、祖母が石垣中尉の姉に当たる菅沼ひかるさん(34)=神奈川県厚木市=が石垣中尉の軌跡を調べ始め、石垣島にも足を運んだことで、石垣中尉の存在に光が当たった。「伊舎堂用久中佐と隊員の慰霊祭実行委員会」(上地和浩会長)は21年、石垣中尉の隊への貢献を考慮し、追加刻印を決めた。
 石垣中尉は山形県高瀬村(現在の遊佐町)出身で、7人きょうだいの3番目。年齢が離れている田中さんの兄に関する直接的な記憶は少ない。だが学生だった兄が登校する時の「行ってきます」、帰ってきた時の「ただいま」という元気のいい声は、今でも耳の奥に残っている。
 石垣中尉は自分の部屋が持てなかったため、廊下の奥に机といすを運んで熱心に勉強していた。田中さんは、そんな兄の姿を今も忘れていない。
 石垣中尉は戦死直前の45年1月、両親に遺書を送った。同封されていた髪の毛だけが現在、山形にある墓に納められているという。
 慰霊祭に参列した田中さんは「兄は戦死したと聞いたが、どういう状況だったのか、ひかるさんから聞かされるまで、両親もきょうだいも全く知らなかった。(名前が追加刻印され)今はほっとしている」と感謝。「戦後、父がぽつんと『仁が生きていてくれたらなあ』と話したことを忘れない。戦争は絶対にだめだ」と力を込めた。
 3年ぶりの参列となった菅沼さんは「仁さんは特攻に加われず、顕彰碑に名前がなかったので、前回参列した慰霊祭では寂しい思いがした。今は仲間たちと一緒に仁さんの名前が刻まれ、とてもうれしい」と安堵した様子だった。

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