【やいまびぃとぅ ここにあり⑧】「至誠一貫」沖縄のインフラ担う 國場組執行役員常務 菊池隆さん(65)

菊池隆さん

 パレット久茂地、那覇市・南風原町共同のごみ処理施設など、県民に親しまれる建物の建設や、県民生活を支えるインフラ整備の第一線で活躍してきた。常に利用者の目線に立つ「至誠一貫」をモットーに「今後も安全と品質を最優先に頑張っていきたい」と意気込む。
 沖縄には珍しい「菊池」姓。父・治之さんはもともと東京生まれで、一家で西太平洋のポナペ島に移住していたが、太平洋戦争の敗戦を受け帰国した。しかし船の手配を誤り、家族の中で一人だけ、石垣島行きの船に乗ってしまったという。当時歳前後だった治之さんは、終戦直後の混乱で家族と連絡を取る手段もなく、身寄りもない離島で一人生きていくことに。桴海大田地区で農業を始め、地元女性の安さんと結婚した。
 2人の間で1958年、5人きょうだいの長男として生を受けた。幼少期は富野小中学校に通いながら、父親のキビ畑で収穫作業を手伝った。「家が貧しいからすぐ就職しよう」と思い、漠然と八重山商工への進学を考えていたが、担任の勧めで八重山高校へ。卒業時も進路については特に深く考えず、理系という理由で九州産業大学工学部の建築学科を選んだ。
 「何かをしたい、と目標を決めることで、逆に選択の幅が狭くなりそうで」と当時の思いを語る。「その時に自分が与えられた状況の中で、流れをつかんできた。背伸びせず、身の丈に合った生き方かも知れない」と話す。
 両親は子どもの教育に対しては理解があり、学資も出してくれた。ただ治之さんは「30歳までには仕事に関する資格を取れ」と注文を出した。
 大学卒業後は沖縄に帰ることを決めており、地元の建設会社で最大手の國場組を就職先に選んだ。現場で経験を積みながら、一級建築士の資格を取るために通勤や睡眠の時間を惜しんで勉強に励み、29歳で資格を取得。その努力を見込まれ、翌年の1988年、パレット久茂地建設工事で鉄骨・仕上げ内装施工の担当を任された。父のアドバイスが生きた形だった。
 都市の「ど真ん中」で行われた大型工事。安全に配慮しながら、工期に間に合わせるため奮闘した。現在でも県庁の隣で堂々とそびえ立ち、県民のショッピングで親しまれているビルを見るたび「当時の苦労を思い出す」という。
 その後も、県庁前にある県民広場の地下駐車場建設、嘉手納運動公園屋内運動場建設、那覇新都心三永開発テナントビル新築…と、重要な工事の責任者を務めてきた。
 那覇市と南風原町が共同で建設したごみ処理施設建設では、焼却炉のプラントに合わせて建物を施工するため、メーカーからの難しい注文に次々と応じなくてはならなかった。
 新築工事を手掛けた那覇空港の新国際線旅客ターミナルビルは、保安上の理由で現場と外部が厳重にエリア分けされ、厳しい入退場管理を強いられた。制限エリアでは人の出入りだけでなく工具や材料の持ち込みについても神経を使った。「ドライバー一本、クギ一本も間違えて落とさせない」というプレッシャーの下で工事を進めた。
 修羅場のような現場をこなす中で、仕事の哲学も身につけた。
 「どんなにいい建物を造っても、事故を起こすとアウト。施工をしっかりやらないと、オーナーからの信用を失う。安全と品質は常に最優先」。
 座右の銘は「至誠一貫」。國場組創業者・國場幸太郎氏の精神「誠心誠意」を大事に貫く。現在は個別の現場を離れ、執行役員常務・建設統括部長として工事全般に大局的な立場で目を光らせる。
 自宅は糸満市。私生活では同僚の加代子さんと結婚し、2男1女に恵まれ、現在は孫が2人いる。
 郷里への思いも忘れない。高校時代に野球部に所属した縁で、現在「八重高が甲子園に行く会」の副会長を務め、同部を物心両面で支援している。
 「八重山から甲子園へ」という夢は2006年、八重山商工が一足先に実現。当時、自身も甲子園に足を運んで応援したが、八商工の校歌が流れた時は「心の中で八重高の校歌を歌っていた」と複雑な思いも。
 「八商工の出場もうれしかったが、死ぬまでに一度でもいいから、甲子園で八重高の校歌を歌いたいね」と期待。「故郷の八重山には大きな恩がある。心も自然も、物質的にも豊かな島であり続けてほしい」と望む。

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