尖閣列島戦時遭難死没者慰霊祭(尖閣列島戦時遭難者遺族会主催)が3日午後、石垣市新川舟蔵の慰霊之碑前で開かれた。昨年に引き続き規模を縮小しての開催。同会の役員7人らは焼香のあと手を合わせ、戦没者の死を悼んだ。
玻名城健雄会長(74)は「少人数でも開催できたことは良かった。来年こそはコロナが終息し、多くの遺族が参加できますように」と願った。
遺族の一人で事務局長の山根頼子さん(65)=新川=は、乗船していた当時80代の曽祖父母、大浜善信さんとインツさんを亡くし、付き添っていたおばが生還した、と話した。
山根さんは「記憶を遡ることが苦で慰霊祭を避ける生還者もいる。いつかその方々が来れる日まで架け橋は作っておきたい」と話し、小規模でも毎年慰霊祭を開催する意味を訴えた。
例年であれば約70人の遺族や関係者が参列するが、ことしは役員のみの参加に限られた。山根さんがコロナ禍で参加できない県外在住の生還者(当時5歳)と電話をつなぎ、住職の読経をともに聞く場面もあった。
遺族らによると、現在、事件から生還した生存者はわずか7、8人。コロナ禍に加え、遺族の高齢化が深刻だという。
玻名城会長は「いかに遺族会を継続させ、慰霊祭をつないでいくかが課題」と話した。
1945年7月3日、180人余りを乗せて石垣港から台湾へ向かっていた疎開船「第一千早丸」と「第五千早丸」が尖閣列島近海で米軍機により機銃掃射を受け、多数の銃撃死、溺死者が出た。
かろうじて生き残った人々は魚釣島に漂着したが、飢えや病気に苦しむ約1カ月間の避難生活を強いられたという。
慰霊祭は2002年から開催されており今年で20年目。魚釣島は無人島で遠隔地であることから、石垣市新川舟蔵に慰霊之碑が建立された。