【やいまぴとぅ ここにあり➀】郷土への思い胸にデザイン アトリエ・セラモード代表 大谷哲生さん(54)

自らデザインした服を前にした大谷さん=那覇市のアトリエ・セラモード

 かりゆしウェアやオーダー婦人服のデザイン・販売などを手掛けるアトリエ・セラモード(那覇市)の代表者。創業から24年、ハイグレードな作品を生むデザイナーとして服飾業界の第一線で活躍を続けている。「弊社でデザインし、製作した服を身に着けて頂くことで、皆が幸せになれる服づくりを目指したい」と自らのモットーを語る。

 1969年、石垣市登野城出身。祖父母は竹富島出身で西表島大冨に移住しており、竹富町にもルーツがある。海星小、長崎南山中学校、八重山高校を経てファッション専門学校の東京モード学園に進学した。
 「小さいころからものを作ることが好き。特に洋服のデザインに関心があった」。東京で4年間デザインの基礎を学んだあと沖縄に戻り、宜野湾市にあるアパレル関係の事業所でデザイナーとして第一歩を踏み出した。
 転機が訪れる。94年、友人の誘いで渡仏し、パリでデザインの技術を磨くことになったのだ。
 現地でキャリアを積んだデザイナー、稲葉重子氏のもとで研修しながら、有名タレントINDRA(インドラ)がテレビ番組で着る衣装を制作した。また、アンミカさんをモデルに、制作した服の写真取りをするなど、デザイナー活動に励んだ。
 当時の作品の一つが、八重山ミンサーの生地を使ったレディーススーツ。「海外で自分のアイデンティティを改めて考えた。祖母が生前にミンサーを織っていたが、素朴さの中にわび、さびがあり、物によってはほど良い華やかさがあった。『自分は今までルーツをないがしろにしていた。もったいない』と気づいた」。パリで、沖縄の素材を生かした服作りへの意欲が沸いてきた。
 97年に帰国。石垣市のあざみ屋に入社し、ミンサーウェアの製作に携わった。経験を積むうち「デザイナーとして独り立ちしたい」という思いが募り、99年、那覇市でアトリエ・セラモードの創業に踏み切った。
 折しも2000年は九州・沖縄サミットの年。サミットに合わせ、県が沖縄オリジナルのウェアを開発する事業を行い、大谷さんも5点の作品を出品した。
 その中には、竹富町織物協同組合が提供した織物を使ったかりゆしウェア1点と、八重山のミンサーウェア2点もあった。
 「伝統工芸も時代に合わせて発展させる必要がある」という考えから、伝統的な素材に現代的な意匠をミックスさせた作品に仕上がった。
 現在は県内デパートや量販店、ホテルなどでかりゆしウェアのブランドgoresu(ゴーレス)を展開。そのうちの一つに付けた「西流」という商品名には、自らのルーツである西表島への思いを込めた。
 県内auショップや沖縄ヤマト運輸の企業かりゆしウェアをデザインするなど、企業用コンセプトデザインにも乗り出している。
 アトリエ・セラモードのかりゆしウェアは、高いもので税込み9万円を超える。伝統工芸素材を使うなど、付加価値を高めたためだ。大きなお祝いの場などで「一級品を身に着けたい」という要望に応えてデザインすることもある。
 顧客の中には、身内亡くなった際、「いつも着ていたかりゆしウェアを棺に入れて持たせました」と話す人も。それを聞き「デザイナー冥利に尽きる」と感じた。
 「私どもで製作したかりゆしウェアを着て頂くことで、お客様の気持ちが高揚したり、仕事のモチベーションが高まったりすると、うれしい」。50代も半ばを迎え、仕事にますますの手応えと自信を感じている。
       (仲新城誠)
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 大志を抱き、離島から広い世界へ。沖縄本島で活躍する「やいまぴとぅ(八重山関係者)」たちの肖像を連載で紹介する。

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