【やいまぴとぅ④】感謝の気持ちを忘れずに 大平総業代表取締役 松原敬周さん(70)

「過去にこだわっては前に進めない」と、自身の哲学を語る松原敬周さん

 「起こったことは受け入れた上で、次は何をするか決断する」
 50年間で5つの企業を渡り歩いた経験から、独特の人生観を持つ。現在、建築現場での磁気探査などを手掛ける大平総業株式会社(本社那覇市)の代表取締役として活躍。企業人としての半生は順風満帆ではなかったが、そのつど苦境を乗り越えてきた。
 1953年8月、与那国町久部良で3人兄弟の長男として生まれた。父はカツオ船の漁師で、6歳まで与那国島で過ごした。父が石垣市の海運会社に転職したことから、家族と共に与那国島を離れ、石垣小、石垣中と進学した。
 石垣島では当時、パイン産業が盛んで、中学時代はパイン収穫のバイトをしながら、廃棄されたパインの芯(しん)の部分を拾って食べた思い出がある。
 中3の時、再び父が転職し、沖縄本島に移った。だが10代前半まで与那国島、石垣島で過ごしたことで「自分は八重山人」という強い意識が育まれた。
 同時の同級生たち「ニッパチ(昭和28年生れ)」の何人かは沖縄本島に在住しており、現在も頻繁に模合をしたり、ゴルフを楽しむ仲だ。
 沖縄工業卒業後、いったんは広島や東京で就職したが「いずれ沖縄に戻る」という父との約束があった。20代で沖縄本島に帰郷。重機販売の会社に就職し、那覇市小禄に自宅も新築した。糸満市出身の静枝夫人と結婚したのも、このころだった。一男二女に恵まれた。
 しかし会社の経営が傾き始めたため、八重山出身の先輩の誘いで、30代で同じ業種の会社に転職。前職での実績や人脈を買われ、若くして役員待遇に昇進した。
 しかし40代のころ、社内の事情で退職せざるを得なくなり、今度は小浜島出身の先輩が経営する企業に役員として入社。50代に入ると、建築現場の不発弾を発見する磁気探査の業務を行う会社で雇われ社長となった。
 しかし、この会社も親会社の都合で資金難になり、経営が行き詰まった。どうすべきか思案していたころ、磁気探査を業務とする別会社「沖縄太平総業株式会社」が売りに出されているのを知った。
 従業員から「経営を引き受けてほしい」と要請され、60歳になった2013年、同社のオーナー兼社長に。社名も「大平総業」と改めた。
 当初は磁気探査だけを行っていたが、これまでの経験を生かし、建築資材の販売など、他業種にも業務を広げた。経営は軌道に乗り、現在、従業員10人、年商約5億円の企業に成長している。
 振り返ると人一倍、出会いには恵まれた人生だった。「巡り会ったいろいろな人たちと、どのように付き合っていくかで人生が決まる。お世話になった人には、感謝の気持ちを忘れてはいけない」。
 もう一つ、後輩に伝えたいことがある。「過去にこだわっては前に進めない」という哲学だ。
 「この会社の経営者になったいきさつもそうだが、起こった物事は受け入れることで、初めて前に進める。次に何をしたらいいかを決断することが大事」と強調する。
 75歳までには会社を後継者に引き継ぎたいと念願しており、これから企業人としてのキャリアはラストスパートに入る。今、改めて思うのは郷里のこと。
 「若い人がダイビングなどを楽しみながら、長期滞在できるリゾート施設があれば、島はさらに活性化する」とゴルフ場新設に期待する。
 「東南アジアから見ると、リゾート地としてハワイは遠すぎ、目を向けられているのは沖縄。その中心に八重山がある。恵まれた立地条件を生かし、特に若い人に頑張ってほしい」とエールを送る。  (仲新城誠)

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