〈1990年5月初旬、戦後初の日本人ジャーナリストとして択捉(えとろふ)島に上陸する〉
僕とソ連との関係は、83~85年ごろにさかのぼる。
200年前に難破して漂流し、極寒のシベリア横断を果たした日本人船頭・大黒屋光太夫の足跡を探るドキュメント番組「シベリア大紀行」(TBS)の撮影のために、4カ月間シベリアに滞在した。その時、ソ連の国営テレビ局のスタッフや地元新聞社の支局長らと仲良くなっていた。89年にサハリンに渡った時もサハリン州政府副議長などと知己になった。
ソ連崩壊直前の90年、現首相の父親で元外相の安倍晋太郎が、ゴルバチョフ政権の改革政策「ペレストロイカ」を支援すべく、自民党訪ソ団を結成。「ゴルバチョフの写真を撮りたくないか」と誘われた。僕は、「随行記者団と一緒のバスに乗っていたら、先頭車両から10台も後ろだから、ゴルバチョフとの最初の握手は撮れませんよ」と言った。すると、安倍晋太郎は「私の車に乗れ」と(笑)。それで先頭車の助手席に座ることができた。クレムリンに着いたらゴルバチョフが待っていたから、車から即座に飛び出したのをよく覚えてるよ。
ゴルバチョフと安倍は8つの提案をした。それまでソ連は領土問題の存在すら否定していたのに、安倍はゴルバチョフから「叡智ある解決を図りましょう」という文言を引き出し、領土問題が存在すると始めて認めさせたんだ。僕はそれを横で聞いていて、どうしても択捉に入りたいと考えた。