沖縄戦が開始された1945年3月26日、故郷の石垣島から出撃した伊舍堂用久中佐(戦死時大尉)率いる特攻隊の攻撃を受けたと見られる米艦船の写真が、沖縄県公文書館に所蔵されていることが分かった。甲板に大きな穴が開いた様子が撮影されており、攻撃の激しさを生々しく物語っている。
写真は4枚で、撮影日は特攻翌日の1945年3月27日、撮影地は「慶良間列島」とされており、撮影日時と場所から伊舍堂隊の特攻を受けた艦船であることはほぼ間違いない。
このうち1枚は甲板に開いた大きな穴と、周辺で話す乗員と見られる軍人たちが写っている。写真説明は「慶良間列島を哨戒中に、日本軍特攻機の急降下爆撃により、甚大な被害を受けた中型揚陸艦(LSM)。ロケット弾用ラックの損壊状況」と記されている。
別の1枚は中型揚陸艦の甲板に開いた穴のクローズアップで、爆発しなかったロケット弾が見える。他の2枚は「特攻隊の攻撃で被爆した米艦船中型上陸艇」などと記されている。
伊舍堂隊の特攻は直後に全国紙で華々しく報道され、隊員10人は第十方面司令官から感状を授与された。感状によると、戦果は大型空母1隻撃沈、大型空母、中型空母、戦艦各1隻撃破とされる。
戦後、旧日本軍に対する県民の見方が厳しさを増し、伊舍堂隊の戦果は地元でもほとんど語り継がれなかった。だが2013年に島内で顕彰碑が建立されるなど、近年、その功績が再び注目されつつある。
写真は日本沖縄政策研究フォーラムの仲村覚理事長が11月、石垣市で開催された講演会で紹介した。
仲村氏は「この写真で、伊舎堂隊の体当たり特攻による戦果は、大本営発表ではないかという批判を否定できる。日本や郷土を守るという伊舎堂隊の意思と功績を、写真を通して肌で感じ取ることができるようになる」と評価。「特攻隊の遺功は、のちの人が語り継がなければ、何もなかったことになってしまう。ぜひ、石垣島からの特攻隊の顕彰碑を慶良間島にも建立していただきたい」と要望した。
県公文書館の米軍関係文書や写真の多くは、職員が米国の公文書館から収集したものだという。写真は県公文書館のホームページから閲覧できる。
伊舍堂隊の特攻 1945年3月26日、石垣島出身の軍人、伊舍堂用久大尉(当時24)率いる特攻隊「誠第十七飛行隊」4機と、援護に当たる直掩機(ちょくえんき)6機が慶良間諸島に迫る米艦隊を攻撃し、沖縄戦の火ぶたを切った。誠第十七飛行隊は伊舍堂大尉をはじめ10人が石垣島に駐屯し、全員戦死した。