琉球国宰相 帰化人説を否定 中国影響「定説より小さい」 

石井望氏

 15世紀の琉球王国に明国から派遣され、首里城の龍潭や那覇の長虹堤(ちょうこうてい)を造成したとされる国相・懐機(かいき)について、長崎純心大の石井望准教授(尖閣史)が当時、王子として領地を与えられていた尚泰久(1415~1460)と同一人物だとする新説を公表した。石井氏は「琉球王国に対する中国の影響は、現在考えられているよりはるかに小さかった」としている。
 懐機は1427年から51年まで長期にわたり琉球王国の宰相として記録されているが、生没年や家系・出身地などの情報は残されていない。
 14世紀末から15世紀の間、琉球国初期の実権を握った国相・王相としては亜蘭匏(あらんぽう)もおり、懐機とともに中国からの帰化人だったとするのがこれまでの定説だった。
 一方、尚泰久は首里城の万国津梁の鐘を鋳造し、護佐丸(ごさまる)・阿麻和利(あまわり)の乱を平定するなど、この時期の最有力君主として知られる。1453年に王位を継承する以前、1435年に越来王子として領地を与えられていた。
 石井氏は懐機について、中国福建省読みが「クイクイ」であり、尾音が脱落すれば「クイク」となって「越来」に該当すると指摘。越来は琉球国初期では有力按司の一つであり、琉球方言で「ぐいく」とも呼ばれる。
 明国には嵬谷・隗谷・魏古の名で繰り返し使節として派遣され、いずれも中国福建省読みで「グイク」と読まれる。石井氏の新説では懐機もグイクの一変形となる。
 石井氏は、越来按司が1427年に琉球の宰相懐機となり、1435年に尚泰久が越来王子として懐機の宰相職を継いだと想定。1453年に尚泰久が王位を継承する前までで懐機の記録が消えるため「両者が同一人物として符合しやすい」とした。この時期で懐機の事績に匹敵する有力者は、尚泰久以外に想定しにくいという。
 石井氏は「亜蘭匏と懐機という琉球国初期の二大宰相が中国人ではなかったことになり、琉球の『大航海時代』を中国人が作ったという前提も崩れる。琉球独立論にとっても大きな歴史的根拠の消失となる」と指摘した。
 石井氏は亜蘭匏が「えらぶ」の福建字音であるとして、同時代の沖永良部島の「えらぶ世の主」こそが大豪族として該当するとの新説を公表している。
 懐機は東南アジア交易による琉球の大航海時代の立役者とされる。長虹堤に天照大神を祭り、龍潭は現在まで沖縄の代表的名勝の一つとなっている。

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