八重山の群雄割拠時代である15世紀に西表島で活躍した豪族、慶来慶田城用緒(けらいけだぐすくようちょ)の子孫でつくる「石垣島錦芳(きんぽう)姓一門会」(森永用朗会長)が8日、先祖が葬られているバンナ岳の古墓を参拝した。一門による墓参りは58年ぶりという。古墓を〝再発見〟した森永会長は「自分のルーツを知り、先祖を大事にして後輩たちに伝えたい」と期待した。
古墓は1995年、周辺を調査していた森永会長が標高231㍍の「タラマニー」と呼ばれる一帯で偶然発見した。アーチ形に石が積まれており、中に七つの骨がめが置かれているのが見えた。
1年後、石垣島における本家の第16代当主だった崎山用喜氏が古墓の修理を依頼していたことが分かり、一門の墓であることが判明。関係者への聞き取りの結果、本家を含む一門による墓参は1952年、57年、62年、63年に行われたことが確認されたが、その後は途絶えているという。
古墓の年代や葬られている人物は不明だが、一連の経緯から、本家の墓である可能性が高いと見られている。
一門は名前に「用」の文字が入る人が多いのが特徴。石垣島での先祖供養は従来、新川に建立された頌徳碑で行われてきた。古墓は場所が山中にある上、参拝してきた関係者の高齢化が進んだこともあり、存在が徐々に忘れられたと見られる。
古墓の再発見は「石垣島の錦芳姓のルーツを知る大きな手掛かり」(森永会長)となる。
この日は新型コロナウイルス感染防止のため、一門のうち役員の関係者など12人が墓参。一人ひとりが線香をあげた。西表島から参加した宮良用範さんらが「鷲ぬ鳥節」などを歌い、お茶で乾杯した。
参加者は「実際にここに来ると心が震える」「先祖の名に恥じないようにしたい」「ファーマー(子孫)がつながって系図を継承していければ」などと語った。
用緒は石垣島の英雄と言われるオヤケアカハチと同時代を生き、西表島の祖納半島を拠点に南蛮貿易をしていたとも言われる。用緒の子孫は第3代の二男用信の時代から石垣島に移った。