小中学校イベントでの「日の丸」掲揚は現在では当たり前の光景になったが、1999年の国旗国歌法制定以前は、学校現場で県教職員組合(沖教組)の激しい反対運動もあった。そうした中、元小中学校校長の鳩間昇さん(84)=石垣市平得=は現役時代、一貫して「日の丸」掲揚を推進してきた硬骨の教職員だった。
■純粋な復帰運動
琉球大農学部卒業後、1960年に教員になり、理科教育などを担当した。当時、沖縄の日本復帰運動は徐々に熱を帯び始め、その中心になっていたのが教職員。鳩間さんも八重山教職員会(沖教組八重山支部の前身)のメンバーとして、復帰を訴える大会や行進に加わった。
米国統治下という逆境にあって鳩間さんは「子どもたちを日本国民として教育する」という強い決意を持っていた。その思いは他の教職員も共通しており、八重山教職員会が子どもたちを通じ「日の丸」の小旗を各家庭に配布することもあった。
ただ、当時の国際情勢は東西冷戦の真っただ中。八重山教職員会の県組織である沖縄教職員会では、共産主義的イデオロギーが力を持ち始めた。
同会は米軍基地が残ったままの復帰に反対する姿勢を打ち出し、沖縄返還協定の批准阻止運動に突入する。日米両政府に反発する教職員のもと、沖縄本島では学校現場での日の丸掲揚、君が代斉唱も行われなくなった。
鳩間さんは「沖縄本島では復帰運動が基地問題と絡んでしまった。八重山は純粋に、日本への帰属を推進する運動だった」と指摘する。
だが八重山でも県教職員会の影響力が浸透し始め、八重山教職員会が主催した復帰を訴える行進で、共産党を象徴する赤旗が立つようになった。
当時の会議で鳩間さんは「ぼくは赤旗が並ぶ場所には行かない。日の丸を持つなら参加する」と主張。結局、日の丸と赤旗が並んで行進する〝珍光景〟が繰り広げられた。
■日の丸へ熱い思い
沖縄教職員会の運動は急進的になり、教職員の政治活動を制限する教公二法(地方教育区公務員法、教育公務員特例法)を粉砕するため67年、デモ隊が立法院を包囲。二法を廃案に追い込んだ。
しかし八重山教職員会の中には、教職員の政治的中立を確保するため二法に賛成する意見もあり、鳩間さんもその一人だった。教職員間で考えの違いが決定的になった。
68年6月16日、鳩間さんら78人の教職員は沖縄教職員会、八重山教職員会と決別し「八重山教職員協議会」の結成大会を大和会館ホールで開いた。初代会長に仲盛清一さん、副会長に伊良皆高成さん、事務局長に伊良皆高庸さんが就任した。
結成宣言では、組織の「政治からの中立』を確認した。伊良皆副会長はのちに、既存の団体を「教育者としての良心を逸脱した政治闘争と過激な活動に陥りつつある」と糾弾している。70年には日本教職員連盟に加入した。
一方、復帰前年の71年に沖縄教職員会は沖教組に改組され、八重山教職員会は同支部になった。八重山では教職員団体として、沖教組八重山支部と八重山教職協議会が並び立つ時代が続く。
鳩間さんは79年、協議会の創立10周年に当たり、こんな2首を詠み、日の丸への熱い思いを吐露した。
「沖縄の津々浦々に日の丸の 揚がる教育(おしえ)の再建を観る」
「日の本の心育む同胞(はらから)の 起つ時きたれり 千萬(せんまん)なるまで」(続く)
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沖縄の日本復帰から50年。前後の世替わりを力強く生き抜いた八重山人(やいまぴとぅ)たちの姿を紹介する。