【50年のあしあと②】校長権限で国旗掲揚断行 教員団体は「自然消滅」 元校長・鳩間昇さん

校長時代、学校の体育館に国旗を掲揚してスピーチを行う鳩間さん(本人提供)

■幻の復帰記念メダル
沖教組八重山支部は米軍基地を残したままの復帰に反発した。政府は1972年4月、復帰記念メダルを製作し、各学校を通じて子どもたちに配布を依頼したが、沖教組は拒否した。
復帰を祝う立場の鳩間さんは、当然のこととして自らが担任するクラスにメダルを配布した。「他のクラスの子どもたちは受け取らなかったと聞いている。あのメダルは今、どこかで積み上げられたままになっているのではないか」と苦笑する。
一つの学校内で教職員が八重山教職員協議会と沖教組八重山支部のメンバーに分かれ、それぞれがいがみ合う雰囲気も存在した。休憩室においてある急須(きゅうす)に組織の名前が書かれ、違う組織のメンバーはお茶を飲むこともできないという縄張り争いもあったという。
沖教組は「教え子を再び戦場に送らない」と主張し、学校現場での反戦平和教育に力を注いだ。国旗国歌を軍国主義のシンボルとみなし、入学式や卒業式で「日の丸・君が代の押し付けを許さない」と訴えた。
八重山教職員協議会の対応は違った。第2代会長の新崎善仁さんは、1979年に発刊された創立10周年記念誌で「本来の学校教育の目的は、その民族の文化を継承し、より発展させる育成の場」と指摘。「常に口を開けば、日の丸や君が代を否定し、その上、物言わぬ子どもらを人質に取ってストに明け暮れている日教組の行動は断じて許してはならない」と批判した。
鳩間さんは協議会の一員として「日本国民を育てるという沖縄の学校教育のあり方として、国旗を掲揚し、国歌を斉唱するのは大切なことだ」と考えていた。
■涙流す教員
ある学校の運動会で日の丸の掲揚を校長に提案したところ、他の教職員から激しい反対に遭ったことがあった。
2時間近い激論の挙げ句、校長は多数決を取り、日の丸は掲揚されないことが決まった。その時は引き下がった鳩間さんだが「自分が校長になったら、絶対に日の丸を掲揚する」と心に誓った。
教頭に昇任後、八重山教育事務所での勤務を経て、1988年、晴れて校長として船浦中学校に赴任した。以後、平真小、川平小中で勤務し、校長としての在職時間は10年間に及ぶことになる。
ある学校での勤務時代。卒業式での日の丸の掲揚に教職員が反対し、会議は紛糾した。意見はまとまらない。鳩間さんは「反対の意見は聞くが、指導要領に日の丸を掲揚すべきと書いてある」と説明した上で「校長権限でやります」と言い切り、日の丸掲揚を断行した。
掲揚に猛抗議していた関西出身の女性教員は、悔やし涙を流した。鳩間さんは内心「ここまで政治の色がついてしまうと、どうしようもない」と嘆息した。
鳩間さんは定年退職まで、自らが校長を務める学校での日の丸掲揚と君が代斉唱にこだわり続けた。国旗国歌法制定時に那覇市で開かれた公聴会にも招かれ、早期の法制定を求める陳述を行った。
国旗国歌法が成立し、現在ではどの学校でもイベントでの日の丸掲揚、君が代斉唱は日常の光景になった。だが君が代を歌えない児童生徒は依然として多く、市議会で問題になったことがある。
鳩間さんは「ぼくは教員に『教えなさい』と指導したが、実際には教えていなかったということ。校長が児童に直接教えるのは越権行為になるから、担任が教えないと徹底できない。その点は残念」と率直に反省する。
八重山教職員協議会は沖教組に比べ圧倒的に構成員が少なく、時間と共に人材が先細りした。その最期は「自然消滅のような形」(鳩間さん)だったという。鳩間さんと仲間たちが創立20周年を祝うことはなかった。
だが、その活動に分け入っていくと、時流に屈しない教職員たちの信念が浮かび上がる。八重山教職員協議会は、復帰前後の八重山教育史に永遠の足跡を刻んだ。(終わり)

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