沖縄戦当時、旧日本陸軍が首里城地下に建設した第32軍司令部壕の第一坑道入り口が報道陣に公開された。
地表から約6㍍下の発掘現場では、当時の床板、坑木(柱)などの痕跡が生々しく残っている。80年前、極限状態にあった日本人たちは、このような場所で息をひそめ、死に物狂いで戦いを継続しようとしたのだろうか。玉城デニー知事は「非常に貴重な戦争の遺構だ」と述べた。
今年は戦後80年の節目であり、こうした戦争遺跡の活用も含め、沖縄戦の歴史を改めて見直す契機にしなくてはならない。
苛烈な地上戦を経験した地域として、沖縄県は2025年度当初予算案に「戦後80年平和祈念事業」を多数盛り込んだ。
「平和の礎」刻銘者のインターネット検索システム構築、県平和祈念資料館・八重山平和祈念資料館の展示更新、沖縄戦証言記録音声のインターネット公開、平和教育フォーラム、学校現場での米軍基地形成史の学び支援などが主なものだ。平和発信を強化する姿勢は評価できる。
沖縄戦では県民、旧日本軍、米軍計約20万人が犠牲になったとされる。県民の身近には必ず戦争体験者がいる。
戦後長く、学校などの平和教育の現場では、子どもたちが戦争体験者から直接話を聞く光景がごく普通だった。
だが沖縄戦から80年が経過し、戦争体験者たちは次々と世を去っている。昨今の平和教育では、自らは戦争を知らない若い世代が語り継がれてきた知識をもとに「語り部」を務めるケースが増えた。
ある日気づくと、平和教育の現場から、いつの間にか戦争体験者が消えている。時間の流れは不可抗力とはうえ、戦争体験者の話を直接聞くことができた世代にとっては衝撃だ。
戦後80年の今「体験継承の危機」が目前に差し迫っている事実も認識しなくてはならない。
過去に目を向けるだけでなく、将来を見据え、どうすれば平和を構築できるかを考えることも大事だ。
米軍、自衛隊を問わず、基地に対する否定的な感情を増幅させるだけの平和教育は、時代にそぐわない。戦後の日本が戦争に巻き込まれなかったのは、日米安保体制と自衛隊の存在が抑止力の機能を果たしたからだ。
八重山や宮古の自衛隊は日本の国境線で脅威に対してにらみをきかせ、災害時には救援拠点にもなる。
沖縄本島では、米軍基地の整理縮小と跡地の利活用が喫緊の課題だ。だが昨今の国際情勢や経済情勢を考えると「基地のない平和な沖縄」という県のスローガンがそのまま現実に通用するかは再考の余地が大きい。
県が今月開催した日米安保体制と沖縄をテーマにしたシンポジウムは基地批判に終始し、具体的な展望につながる内容とは言い難かった。
平和イコール非武装という時代ではないことも、戦後80年の今、改めて確認しなくてはならない。