1945年7月、石垣島から台湾へ向かった疎開船が米軍に攻撃され、多数の犠牲者を出した「尖閣諸島戦時遭難事件」で、遭難者救助に尽力した「決死隊」メンバーでありながら唯一忘れ去られていた故・見里清吉さん(享年29)が10日、事件から80年越しに、石垣市から表彰される。
石垣島の住民らが乗った疎開船「第一千早丸」「第五千早丸」は45年7月3日、米軍の機銃掃射を受け「第五千早丸」は沈没。「第一千早丸」は尖閣諸島魚釣島に漂着した。
100人以上の漂着者は約1カ月間、魚釣島で飢えに苦しんだが、その中で当時21歳の見里さんら8人が「決死隊」を結成。難破した船の残骸でサバニを造り、魚釣島を出発した。51時間余に及ぶ苛酷な航海で170㌔先の石垣島にたどり着き、日本軍に救助を要請した。
石垣市と遺族会は69年、遭難者多数の命を救ったとして、本土に復員した元軍人の1人を除く決死隊の6人と船大工1人を表彰したが、見里さんは対象から漏れた。理由は関係者の間で長年の謎だったという。
尖閣諸島文献資料編纂会の國吉真古さんと、石垣市在の歴史家、野原啓三さんが23年、改めて事情を調査。見里さんが表彰の16年前の53年、海難事故で死亡していたことを突き止めた。
事件当時19歳だった見里さんの弟、勇吉さんも決死隊メンバーで、69年の表彰時には病死していたが、妻の千代さんが代理で表彰状を受け取った。清吉さんは独身で、証言者がいなかったことが表彰から漏れた一因と思われるという。
「忘れられた決死隊メンバー」のエピソードは地元紙で大きく掲載されたほか、ノンフィクション作家の門田隆将氏が遭難事件をテーマに執筆した著書「尖閣1945」でも紹介された。
これを受け、中山義隆前市長は今年1月、市制施行記念日の7月10日に開かれる式典で、改めて見里さんを表彰する方針を決定。勇吉さんの長女で、清吉さんの姪にあたる岸本淳子さん(69)=名護市=に伝えていた。
岸本さんは「おじは独身で身寄りがないまま若くして海難事故で亡くなり、写真も残っていない。位牌だけの存在だった。淋しく辛い人生だったと思うが、表彰が生きた証(あかし)になる。80年経って功績が日の目を見て、天国で飛び上がって喜んでいると思う」と語った。
門田氏の著書出版後、清吉さんのことを「初めて知った」という連絡が知人からあり「反響は大きかった」という。
岸本さんは10日の式典に出席し、遺族代表として見里さんへの表彰状を受け取る。このあと事件の慰霊碑を訪れて手を合わせる。