楯の会では当時、隊長の三島と共に決起して死ぬことが当然という雰囲気が蔓延。三島が歴史的事件を起こす予感はあった。その時、沖縄県民である自分が三島と共に身を挺(てい)すれば「沖縄と本土が共有できる歴史がつくられ、両者の空隙を埋めるインパクトになる」と信じた。
事件は70年11月25日に起きた。三島は会員4人と共に自衛隊市ヶ谷駐屯地に立てこもり、憲法改正を訴えて森田と自決。当時、沖縄に帰省していた山城さんに声が掛かることはなかった。
山城さんは楯の会解散後、就職や起業を繰り返しながらも政治に関心を抱き続けたが、30代の終わりまでに表立った活動からは身を引いた。元楯の会会員に対する取材のオファーもすべて断り続けてきた。
若き日に感じた「沖縄と本土の空隙」は、いまだに埋められないままだ。「本土の『保守』も日米安保条約の上にあぐらをかくだけ。基地問題では沖縄に対する無理解、無関心を感じる」。言葉に憤りがこもる。
25日は三島事件から49年。事件は既に歴史になった。「隊長や森田さんは立派だった。死ぬことで言葉に重みが増し、遺(のこ)された言葉が受け継がれていく。…僕は生き残ってしまったけど」。山城さんの穏やかな表情に、悔恨とも苦渋ともつかぬ色が浮かんだ。