八重山方言研究に尽力した宮城信勇先生を偲(しの)ぶ会(主催・同実行委員会)が24日午後、アートホテル石垣島で開かれ、親類や教育関係者、八重高17期、文化協会、新川字会など関係者ら約130人が集って故人を偲んだ。宮城信勇氏は1977年に「八重山ことわざ辞典」、2003年には1万7千を超える方言を集めた「石垣島方言辞典」を完成させた。昨年9月16日老衰のため数え100歳で他界した。
実行委員会の石垣久雄代表は「人をしかるのではなく常に良くなるように親切丁寧に話をする姿が印象に残っている。素晴らしいシィマムニの消失を心配され、文化協会に一早くシィマムニの復活・普及に警鐘を鳴らしてくれた」とエピソードを話した。
開会で黒島健委員が「宮城信勇先生をおいて我が島のシィマムニを語ることはできない。八重山文化協会初代会長の森田孫栄氏は宮城先生は『八重山の宝』だ」と述べたことについて紹介した。
偲ぶ会では宮城氏の四男・信義さんがスクリーンに映し出された写真をもとに思い出を語り、来場者は懐かしい写真の数々に故人に思いを馳せた。
八重山古典民謡保存会の無蔵念仏節やとぅばらーまも披露され、潮平俊さん、石垣博孝さん、松村順一さんの3人が故人との思い出を語った。
宮城信勇氏は石垣市新川生まれ。戦後間もない郷土の教育再建に尽力し、八重山群島政府の文教部長や八重山地区教育長などを歴任。その後、琉球文教図書の八重山支店長から那覇本社の取締役となり、当時の琉球政府の屋良朝苗主席に請われて企画部長に就任。退官後は「石垣島方言辞典」を30年の歳月をかけて完成させ、郷土の発展と文化の継承に尽力した。