1945年3月26日、沖縄戦の陸軍特攻第1号として石垣島から出撃し、慶良間諸島沖の米艦隊に突入した伊舍堂用久中佐(当時24)=戦死時大尉、2階級特進=ら、誠第十七飛行隊員の75回忌となる慰霊祭が26日、石垣市南ぬ浜町の顕彰碑前で開かれた。約40人が参列。哀悼の意を込めて折り鶴を顕彰碑前に供え、恒久平和を祈念した。
顕彰碑前には石垣島を飛び立った特攻隊員たちに見立て、折り鶴が置かれた。参列者も、顕彰碑下の石敷きに一人ずつ折り鶴を供えた。遺族ら関係者が献花した。
慰霊祭実行委員会の上地和浩会長は「今後とも史実を後世に伝える。恒久平和を希求する」と式辞を述べた。中山義隆市長は「戦争の悲惨さ、平和の尊さを未来へ語り継ぎ、郷土を守り育てていかなくてはならない」と誓った。
伊舍堂中佐の甥、用八さん(81)は特攻を振り返り「やるべきことはやるという武士道の精神」と強調。「勇ましいということではなく、平和のシンボルとして、この顕彰碑に手を合わせていただきたい」と求めた。読経や神事もあった。
ANAウイングスの航空機で機長を務め、中部国際空港を中心とした路線で活躍している石垣市出身の東盛和市さん(55)=愛知県半田市=は、75回忌を機に初めて慰霊祭に参列した。
顕彰碑に手を合わせ「私たちは空から日本のきれいな景色を見ているが、特攻隊員たちは、同じ景色をどんな気持ちで見ていただろうと思う。伊舍堂隊の犠牲があって今のパイロットは平和な空を享受できている」と語った。
慰霊祭実行委員会は13年の顕彰碑建立から毎年、慰霊祭を開催してきたが、75回忌を区切りとして、今後の慰霊は個々人の取り組みにゆだねる。