1771年(明和8年)4月24日に八重山諸島で起こった大津波から250年となる24日午後、石垣市の宮良タフナー原で明和大津波遭難者慰霊祭(主催・市)が開かれ、中山義隆市長ら約60人が参列。犠牲者を悼み、次世代に災害の教訓をつなぐと誓った。
午後2時に参列者全員が黙とうを捧げ、表千家不白流沖縄県八重山支部が犠牲者の冥福を祈った。中山市長は「いつ起こるかわからない災害に思いを巡らせ、平時の備えを怠ってはいけない。市民にも『自分の命は自分で守る』という信念を持ってほしい」と述べた。
石垣市立宮良小学校の宇根底師平君(6年)、大浜中学校の嵩原綾花さん(3年)が作文を朗読。このうち嵩原さんは「自然は時に私たちを傷つける刃となり、人間はいつも死と隣り合わせで生きている。忘れないために、繰り返し学ばなければならない」と述べ、災害の教訓を後世につなぐと誓った。
新型コロナウイルスの感染拡大防止を図り、ことしの慰霊祭参加は案内者のみとした。平良秀之石垣市議会議長、西大舛高旬竹富町長、前田緑朗石垣島地方気象台長らが参列し、献花した。
玉城デニー沖縄県知事の「250年を経た今、大きな犠牲の下に得られた貴重な教訓を風化させず、災害に強い県・地域をつくりあげる」という追悼の言葉が読み上げられた。式典後は自由献花の時間が設けられた。
午後2時にはサイレンが鳴らされ、市民が犠牲者の冥福を祈った。
明和の大津波は、明和8年(1771年)4月24日午前8時ごろ、八重山・宮古諸島(先島諸島)を襲ったとされる大津波。震源地は白保崎の南南東約40㌔の海底で、地震の規模はマグニチュード7・4だったとされる。この地震により大津波が3度押し寄せ、八重山では全人口(2万8992人)のうち9313人が死亡。人口の32・1%を失ったとされる。