父「忘れ難き記念撮影」子「父思い手を合わせ」親子2代で尖閣上陸

1939年に撮影された魚釣島の水溜め。68年の譲さん上陸時にも残っていた(正木譲さん提供)
1939年に撮影された魚釣島の水溜め。68年の譲さん上陸時にも残っていた(正木譲さん提供)

 尖閣諸島文献資料編纂会は、父親と親子2代で尖閣諸島に上陸した経験を持つ元南大東島気象台長の正木譲さん(87)=石垣市登野城=の回想をまとめた小冊子「尖閣への想い 遥かなり~父子2代 上陸調査の夢果たす」を発行した。今から53年前の1968年に訪れた尖閣諸島の様子や、気象観測のプロとしての視点から見た尖閣の歴史などがつづられている。
 正木さんの父、任(つとむ)さんは石垣島地方気象台の前身である石垣島測候所に勤務していた39年、農林省南西諸島資源調査団の一員として尖閣諸島に上陸した。
 島の状況や生態系を調査し、当時の新聞に論文を掲載。尖閣諸島で自ら撮影した写真のアルバムを作り「生涯ニ於(お)ケル忘レ難キ記念撮影」などと記した。
 与那国測候所長に内定した任さんは43年、東京研修を終えた帰途に、奇しくも尖閣諸島西方沖で米潜水艦の魚雷攻撃に遭い、36歳で戦死した。
 少年時代から父の論文やアルバムを目にし、尖閣諸島への憧れを育んだ次男の譲さん。父の上陸から29年後の68年沖縄問題等懇話会委員の高岡大輔氏を団長とする学術調査団に同行し、尖閣諸島魚釣島と南小島の地を踏んだ。
 魚釣島では、父が残した写真に写っていた水溜めがそのままあるのを見つけた。「父の姿を想像しながら、水溜のそばで手を合わせて感慨にふけった」という。
 小冊子によると、尖閣諸島では43年ごろ、当時の中央気象台が測候所設置を計画し、その後終戦直後、当時の石垣島測候所長が設置計画を再燃させた。沖縄復帰直前の70年にも当時の琉球政府が無人の気象観測所設置を日本政府に要請している。
 いずれも実現しなかったが「思い切ってあの時に造っておけば」という正木さんの嘆息も記されている。
 正木さんは八重山日報の取材に「親子2代で上陸した人は、私のほかにいないだろう」と指摘。尖閣諸島を取り巻く国際情勢に関しては「尖閣が日本のものであることはまちがいなく、中国が『自分のもの』と言っているのはとんでもないことだ。政府を動かし、外交で問題を解決すべきだ」と話した。
 小冊子は300部発行、定価500円。問い合わせは編纂会℡070・5415・6349(國吉さん)。

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