中学生のころから英語が好きだった。英語弁論大会に出場したこともあった。
外資系の会計事務所、米国に本社がある国際的な八大会計事務所の一つ、デロイト・ハスキンズ・セルズの日本法人に就職。1987年、シャネル、フォード、マッキンゼーといった大企業をクライアントに持つ会計事務所で、法人税申告書の作成などの業務を行った。同事務所で6年間勤務後、那覇市で税理士事務所をスタートした。
「当時、沖縄では英語ができ、外資系事務所での勤務経験がある税理士はほとんどいなかった」。その強みを生かし、米軍基地と契約している外資系企業などをクライアントとして獲得できた。
「八重山で育ち、良い友だちや先生に恵まれた」と、故郷への思いを新たにしている。
宮古島の平良市生まれ。父・与儀喜昇は昭和23年、宮古島から西表島住吉に向かった移民団約30人の団長だった。西表島には当時、幼稚園がなかったため、石垣島に住む祖父母と過ごし、小学校2年生の時、両親が住む西表島の浦内へ。上原小中学校に通学した。
「藁葺きの家で、電気も水道もない。照明はランプを使い、水は井戸から汲み上げていた」。不便な生活だった が、大自然の中で、伸び伸びと育った。
税理士の職業があることを知ったのは、八重山高校時代。友だちが石垣市の女性税理士、慶田城照子さんから記帳の指導を受けていた。当時「女性も経済的に自立しないといけない」と考え、税理士の資格を取りたいと決意した。
八重山高校卒業後、国際商科大学商学部に進学し、公認会計士事務所に勤務しながら実務を学び、30代で税理士試験に合格した。栃木県出身の夫・静夫さん(69)と出会ったのも東京だった。
鈴木税理士事務所は現在「職員や関与先に恵まれている」と話す。那覇市税務相談員、沖縄県監査委員などの公職でも8年間活躍した。沖縄税理士会では、副会長も経験した。
「経営者の悩みを聞き、どうすれば解決できるか一緒に考える。経営者の皆さまから、多くのことを学ばせていただきました」
事務所経営では「利益を分配する」という基本理念で、職員の福利厚生を手厚くしている。
仕事が多忙を極めていた3年前、くも膜下出血で倒れ、3回の手術を受けた。現在もリハビリに励む毎日だが、入院中は夫や職員が事務所を守った。
「皆さまのおかげで仕事を継続することができた。今回、病気になって、健康がいかに大事か気づかされた」
故郷の先人、大浜信泉氏の「人の価値は、生まれた場所によって決まるものではない。いかに努力し自分を磨くかによって決まるものである」という教訓が好きだ。「どう考え、どう生きたかが重要。健康を回復させ、仕事を通して、お世話になった皆様へ、ご恩返ししたい」(仲新城誠)