プロのミュージシャンとしてバンド活動をしてきた経験を、現在の業務に生かしている。「人をいかに喜ばせるか(という精神)が、音楽活動と観光で共通している」。一般財団法人沖縄観光コンベンションビューロー(ОCVB)の若手職員として、沖縄の基幹産業を第一線で支える。
▽アンサンブル
1987年、石垣市真栄里で石垣島製糖職員の紀夫さん、八重山病院看護師の竹子さん夫妻の末っ子として生まれた。創立されて間もない八島小に通った。
学校の目の前には海が広がる。毎日、釣竿をリュックに入れて出かけ、浜辺で泳ぎ、将来のウミンチュを夢見た。後年、観光業に携わるようになってから、何気なく目にしていた豊かな海が、島の大きな財産であることに気づく。
母の転勤で、きょうだいと共に沖縄本島に引っ越し、南星中(南風原町)、南風原高に進学。このころドラムを覚え、ミュージシャンを志した。
音楽に専念するため通信制高校に移り「オレンジレンジ」などが在籍する音楽事務所に所属。バンド「ヘブンズヘンプ」や「オールジャパンゴイス」のメンバーとして県内や全国各地でのツアーに参加し「1年で200回以上のライブ」をこなすなど、音楽漬けの日々を過ごした。CDも10枚以上出した。
しかし「メンバーの方向性の違い」でバンドは解散。25歳の時、たまたま目にしたOCVBの求人に応募し、契約職員として働き始めた。本島内で、観光の重要性を県民向けに伝えるイベントなどの運営に回された。
過去に、バンドのライブステージを作り上げた経験があった。音楽も観光も、他人に何らかのメッセージを発信する点では同じ。「音楽活動のノウハウを生かせる」と感じた。音楽のアンサンブルをつくるのと同じ感覚で、職場の仲間とのコミュニケーションにも努めた。
イベントは成功し、次は県外で誘客プロモーションを展開する仕事を担当させられた。沖縄への直航便が飛んでいる全国23空港がある地域へ行き、沖縄の魅力をアピールする。北は北海道から南は九州まで飛び回った。
▽観光ブランド
県外の人たちと触れ合う中、気づいたのが故郷・石垣島の「観光ブランドとしての価値の高さ」。石垣島の名前を出した途端、誰もが真剣に話を聞く。県外のプロモ会場で川平湾など、石垣島の風景写真を展示すると、来場者が次々と足を止め「きれい」「行きたい」と声を上げる。
沖縄の中でも、とりわけ石垣島が南国リゾート地として本土の人たちの憧れであることを実感し、驚くと同時に喜んだ。
「子どものころ、普通にやっていた『海で泳いで釣りをする』という生活が、本土の人たちにとっては大きな魅力なんだと初めて知った。これだけ石垣島の知名度が浸透しているのは、先人たちが観光ブランドを構築するために頑張ったおかげ」と述懐する。
職員としての契約期間は5年だったが、仕事に大きなやりがいを感じ、ОCVBからも業務を続けるよう誘われた。難関の採用試験を突破し、2019年、32歳で晴れて正職員に。新たにウェブサイトの運営なども任され、掲載記事の取材や執筆も手掛けるようになった。
職員としてのキャリアが本格化したのと時を同じくして、沖縄観光は大きな試練に見舞われる。新型コロナウイルス禍の到来だ。
「島の医療資源が限られている中、これまで本土に向け『沖縄に来て』とアピールしてきたのに、今度は『来ないでください』と言わなくてはならない。迎え入れる島の人たちの事情にも配慮し、うまく調整していく役割が大切だと痛感した」
今、コロナ禍は去りつつあるが、観光の「量から質」への転換の動きは変わらない。世界自然遺産の西表島では観光客数を制限する取り組みも始まった。新たな観光スタイルに合わせた柔軟な発想が求められており、自らの仕事も、今までとは異なるステージを迎えていると思う。
現職は国内事業部国内プロモーション課、路線別連携プロモーション、デジタルプロモーションの主任。プライベートでは父が早世し、糸満市の自宅アパート近くで建てた新居に母を呼び寄せた。石垣市の副市長を務めたおじ、黒島健さんから話を聞く機会が多く、八重山の政治や行政には今も関心を持ち続けている。
「本島にいながら、石垣に貢献できる仕事をしたい。いずれは島に帰りたい、と一週間に一回くらいは思いますね」(仲新城誠)