伊舍堂中佐の遺品を確認 永久保存へ学芸員ら助言 知覧特攻平和会館

父宛てに、「用久元気」などと書かれた手紙。用久が通信筒に入れ、上空から投下した㊨。中性紙封筒を手にする坂元氏から保存方法の説明を受ける用八さん(奥)。手前にあるのは通信筒と手紙㊧=22日午前、伊舎堂用八さん宅

 特攻隊員、戦没者1036人の遺品を展示・収蔵している知覧特攻平和会館(朝隈克博館長)=鹿児島県南九州市=の学芸員2人が21、22の両日、沖縄戦の陸軍特攻第1号として石垣島白保から出撃した伊舍堂用久中佐(当時24、戦死時大尉)の甥・伊舎堂用八さん(80)=石垣市登野城=の自宅を訪れた。中佐の遺品を把握し、資料保存の方法をアドバイスした。

 訪問した学芸員は八巻聡氏、坂元恒太氏。仏壇で手を合わせてから、保管されていた遺品の複写と保存作業を開始した。用久が父・用和に宛てた手紙、柳行李に収められた軍服、台湾に向かう途中、中佐が航空機から実家へ投下した通信筒に入れた手紙などを写真に収めた。持参した薄葉紙や中性紙封筒の使い方と、中性紙を使用した収納箱への納め方を助言した。
 今後は用八さん自身が遺品を確認しながら保存作業を継続する。用八さんと妻の都さん(80)は「八重山平和祈念館で開かれた遺品展の時に資料をまとめたが、正しく保存できていなかった。学芸員の方が来てくれたおかげで、永久保存のようになった」とうれしそうに話した。
 八巻氏は「通信筒自体も珍しいが、そのエピソードや背景がよく分かることも珍しい。74年経つ歴史的資料なので、ご遺族の方にも保管方法のアドバイスなどで協力していきたい」と話した。
 坂元氏は用久が書いた手紙を見つめながら「遺影、位牌がある場所で、直筆のものを目の前にしている。その人と向き合っているような気持ち」と感慨深げな表情を見せた。
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 伊舍堂用久中佐 1920年、石垣町登野城生まれ。陸軍士官学校卒業後、中国戦線を転戦。44年、台湾花蓮で編成された誠第十七飛行隊長に任命される。45年3月26日、部下とともに石垣島から出撃し、沖縄上陸を図る慶良間諸島沖の米艦船群に体当たり攻撃し戦死。享年24。戦死後、二階級特進で中佐。

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