沖縄戦の陸軍特攻第1号である石垣島出身の軍人、伊舎堂用久大尉(当時24)=戦死後中佐に特進=率いる誠第十七飛行隊(伊舎堂隊)の副隊長格で、特攻直前に戦死した石垣仁中尉(当時23)の遺書が見つかり、遺族の菅沼ひかるさん(31)=神奈川県厚木市=が八重山日報の取材に応じて公表した。戦死の約2カ月前、山形県の両親などに宛てて書かれ「皇国興廃(こうはい)の鍵を握る空の特攻隊として選まれたる、真(まこと)に日本男子の本懐之(これ)に過ぐるものはなく、只々(ただただ)男の死処を得たるを無上の喜びと存じて居ります」などと決然とした心情をつづっている。22日は石垣中尉の命日、26日は、伊舎堂隊の特攻の日で、ともに75周年の節目となる。
伊舎堂隊は1944年12月、陸軍第八飛行師団によって台湾花蓮市で編成され、石垣中尉は隊長の伊舎堂大尉に次ぐ階級だった。
同隊は45年2月18日、台湾から石垣島に展開し、1カ月余り特攻作戦の準備に当たった。特攻は3月26日だったが、石垣中尉は直前の22日、物資の輸送作業のため台湾に向かい、台北北部にある野柳半島の西方で敵機と交戦、戦死した。
遺書の日付は1月23日で、石垣島展開の前、花蓮港基地で書かれた。「情勢逼迫(ひっぱく)し近々出動するやも知れず、或(ある)いは之(これ)が最後の御(お)便(たよ)りとなるかも知れません」と覚悟を示した。
戦局を「有史以来の重大局面」と危機感を示し「一億挙げて皆特攻隊となって国難を突破せねばなりません」と訴えている。
その上で、時節の到来とともに散る桜の美しさを歌った古人の歌を引用し「二十有余の人生櫻(さくら)と散って何の悔(くい)やありましょう」「唯(ただ)父上様や母上様に何も孝養をつくす事の出来なかった事を残念に存じて居ります」と述べている。